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ジェームズ・グラハム (第2代準男爵) : ミニ英和和英辞書
ジェームズ・グラハム (第2代準男爵)[だんしゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [じゅん]
  1. (n,pref) level 2. apply correspondingly 3. correspond to 4. being proportionate to 5. conforming to 6. semi 7. quasi 8. associate 9. standard 10. rule 1 1. aim
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 
男爵 : [だんしゃく]
 【名詞】 1. baron 

ジェームズ・グラハム (第2代準男爵) ( リダイレクト:ジェームズ・グラハム (第2代准男爵) ) : ウィキペディア日本語版
ジェームズ・グラハム (第2代准男爵)[だんしゃく]

第2代准男爵サー・ジェームズ・ロバート・ジョージ・グラハム(、1792年6月1日 - 1861年10月25日)は、イギリスの政治家。
ホイッグ党ダービー派保守党ピール派自由党と党派を移しながら、ヴィクトリア朝前期に閣僚職を歴任した。
== 経歴 ==

1792年6月1日カンバーランド・に邸宅を構える地主の初代准男爵サー・ジェームズ・グラハムとその妻キャサリン(第7代ギャロウェイ伯爵の娘)の息子として生まれる〔Creighton (1890) p.329〕。
ウェストミンスター・スクールを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学した〔〔Chisholm (1911) p.318 〕〔。1812年にオックスフォードを中退し、グランドツアーに出た。スペインからシチリア島へ向かう途中、急きょイギリスの外交使節団の一員に加えられ、使節団に従ってローマジェノヴァを訪問した。1814年に帰国〔。
その後のロンドンでの生活の中でホイッグ党の政治家を志すようになった。父はトーリー党だったので選挙活動を助けてくれなかったが、1818年のでからホイッグ党候補として出馬し、庶民院議員に当選した〔。
1820年のではに転じて再選されたが、その翌年には彼の再選について有権者の反発があり、選挙委員会で争うだけの金がなかったため、辞職してしばらく政界を去った〔。
議員失職中は父の地主の仕事を手伝った〔。1824年4月には父の死により第2代准男爵位を継承した〔。1826年には『とうもろこしと通貨(Corn and Currency)』を著し、自由貿易とを支持する立場を表明した〔。これにより彼は改革派の政治家として一目置かれるようになった〔。
1826年にから選出され、再び庶民院議員となる〔〔。1827年12月に庶民院議員ジョン・カーウェンの死去に伴い、そちらの選挙区に移って当選した〔。
1830年に公務員給与削減問題で活躍したことで名を上げ、グレイ伯爵内閣のに抜擢された〔。また選挙法改正案準備委員会の委員の一人に選ばれた。この委員会は閣僚4名で構成され、他のメンバーはジョン・ラッセル卿、、ダーラム伯爵であった。グラハムはホイッグ右派と見られている人物なので、ダンキャノン子爵とともに行きすぎた改正にブレーキをかける役割を期待されていたと見られる〔横越(1960) p.111〕。
1834年アイルランド国教会歳入の民間転用問題をめぐってグラハムやスタンリー卿(のちのダービー伯爵)らホイッグ右派閣僚が改革派ラッセルと対立を深め、結局グラハムらが閣僚職を辞することになった。これ以降グラハムはじめ80名ほどのホイッグ右派はスタンリー卿を指導者に仰ぐ独立会派ダービー派を形成した〔君塚(1999) p.62〕〔ブレイク(1979) p.50〕。ダービー派は1839年までに保守党に吸収合併されることになる〔君塚(1999) p.66〕。
1837年のでは党派変えの反発を買ってカンバーランド選挙区で落選したが、1838年にはに転じて当選した〔〔Creighton (1890) p.330〕。この後も、、と選挙区を転じていく〔。
1838年にはグラスゴー大学のに就任した〔〔。
1841年9月には第2次ピール内閣に内務大臣として入閣した〔〔。内相としての喫緊の問題はスコットランド教会の内部対立であったが、政府は妥協しない方針を決定。結果を招いたとして、グラハムはスコットランドにおいて広く非難された〔〔。また1844年に郵便局で封書検閲が行われていたことが発覚した際にも、令状を発行した閣僚として批判の矢面に立たされた〔〔Creighton (1890) p.331〕。1845年11月にピール首相が穀物法廃止(穀物自由貿易)を打ち出すと外相アバディーン伯爵、陸軍事務長官シドニー・ハーバートとともに閣僚の中でもいち早く支持を表明した〔君塚(1999) p.77〕。
保守党が穀物自由貿易派と保護貿易派に分裂すると自由貿易派のピール派に属した。1852年12月に成立したピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣ではピール派からの閣僚の一人として海軍大臣に就任〔バトラー(1980) p.17〕。クリミア戦争をめぐっては他のピール派閣僚とともに平和派に属したが、ホイッグ党閣僚たちに押し切られた結果、参戦に決した〔バトラー(1980) p.23〕。
1855年1月にはクリミア戦争の泥沼化の中で調査委員会の設置の動議が決議され、アバディーン伯爵内閣は退陣。代わってホイッグ党首班の第一次パーマストン子爵内閣が発足した〔バトラー(1980) p.24-25〕。同内閣にも留任したが、パーマストン子爵が調査委員会の設置に応じる構えであったため、他のピール派閣僚グラッドストン、ハーバートとともに二週間で下野した〔バトラー(1980) p.25-26〕。
ピール派の長老と目されていたが、病気のため、1859年のホイッグ党、ピール派、急進派の合同による自由党結成と第2次パーマストン子爵内閣樹立の動きには積極的な関与はできなかった。この頃にはピール派の指導権もグラッドストンやハーバート、ニューカッスル公爵らに移っていた〔君塚(1999) p.152〕。
晩年にも議会に精力的に出席したが、休暇でネザービーの自邸に帰っていた際の1861年10月25日に死去した〔Creighton (1890) p.332〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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